今月の人

苦労・苦農・楽農

228. 島袋 洋二さん(36)

 農業技術の向上や、経営改善など、農業経営に新しい風を吹き込むため積極的に活動に取り組む沖縄市農業青年クラブ。市内の若手農業者らが集まって作った組織だ。今回紹介するのは農業青年クラブを率いる会長の島袋洋二さん。自身は叔父と共に倉敷で菊農家を営む。今月は島袋さんに農業青年クラブの仲間たちとのつながりや農業の楽しさについて聞いてみた。

 島袋さんが会長を務める沖縄市農業青年クラブは、若手の農業者で構成される団体。現在会員は七人、農業技術の向上や遊休農地の利用、他団体との交流、農業経営の改善などに取り組んでいる。
 島袋さんが農業に携わるようになったのは今から約十年前。祖父の農地を譲り受け、叔父とともに菊栽培に取り組むようになってから。農業を始めた頃から島袋さんは農業青年クラブに加入。同世代の気の置けない若者同士、共通の課題を話し合ったり他団体との交流を深めたりしながら仲間との結束を固めてきた。「このメンバーはなんでも話し合える信頼のおける大切な仲間です」と島袋さんは話す。
 先日、彼らの結束の固さが示される出来事があった。三月十一日に東北地方で起きた未曾有の大震災。その影響は各方面に波及し、お彼岸の出荷最盛期を迎えていた沖縄の菊農家も直撃した。東京の市場から、納品を断られたのだ。市場に搬入してもそこから消費地に運ぶ運輸手段が確保できないというのが理由だった。四カ月間手間暇かけて育てた菊を処分することになった島袋さんは、どうせ捨てるのならこれを沖縄で売ってその売上金を被災地に贈ろうと考え仲間に相談した。すると仲間達は迅速に行動、徹夜で菊の花束を作り、市役所前やファーマーズマーケット前に立ち販売した。彼らに賛同した周りの農家からも花の提供が相次いだ。その結果、処分するはずの菊から約三十万円の義援金を作りだし、役所や農協を通して被災地に贈ることができた。島袋さんは「大変な作業を仲間が快く引き受けてくれた。みんなの協力があったから義援金が作れた。僕たちも被害を受けたがそれとは比較にならない被害を受けた東北の農家仲間を少しでも勇気づけたかった。」と話した。
 島袋さんにとって農業とは?と尋ねてみると「苦労・苦農・楽農です」と答えた。「農作業には苦労も多い、天候や災害、社会情勢にも左右される、でも収穫の時にはそんな大変なことを忘れるくらいの充実感と喜びがあります。仲間と共に取り組む農業という仕事が大好きです」と、誇らしげに顔をあげ話した。

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▼戦後文化シアター 今月のヒストリート

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サハリンの朝鮮系ロシア人女性
▲サハリンの朝鮮系
  ロシア人女性

 報道写真家の石川文洋氏は、1985年から2002年にかけて35の国々を訪れ、老若男女の写真を撮りためました。その中から選んだ50点の写真を、今月6日よりヒストリートUで「世界の笑顔」展として大公開!!
 様々な国で様々に生きている人々の素敵な笑顔をお届けします。
 写真はサハリン(樺太)在住のロシア国籍の朝鮮系女性。日本が朝鮮半島を統治していた時代、日本国籍を持つ朝鮮の人々も、出稼ぎや徴用による労働者として日本領だった南樺太に移住していました。第二次大戦末期の45年8月9日に対日参戦したソ連は南樺太へ侵攻。日本がポツダム宣言を受諾した8月15日以降も戦闘は続いてソ連軍は全島を制圧し、民間人も含め多数の犠牲者が出た戦いは終わりました。
 日本の敗戦後、ソ連当局の意向で殆どの朝鮮系住民は樺太に残留させられました。定住を余儀なくされた「在樺コリアン」は、ロシア国籍を取得した者が多く、戦後生まれはロシア語しか話せないようです。
 地上戦で焦土化した沖縄も戦後は日本から分離され、27年間米軍統治下に置かれましたが、英語は殆ど定着していません。一方で、米兵の発音の影響を受けた「ストゥ(シチュー)」「ハンバガー」といった〈耳英語言葉〉は、現在でもコザの一部食堂のメニューで見られます。

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