今月の人

大道芸の魅力にはまっています

223. ピエロのファンキー

 スパンコールやフリルがたくさんついた華やかな衣装に鮮やかなピンク色のかつら。華奢なその手からは魔法のように風船でできた花や人形が次々と作りだされる。
 この女性はピエロのファンキーさん。一年半ほど前からピエロの扮装で市内のまつりやイベントに出没中。彼女が現れると周りには目を輝かせた大勢の人々が集まる。今月はファンキーさんから人々をとりこにするバルーンアートや大道芸の魅力について聞いてみた。

 ファンキーさんは岐阜の出身。中学三年の頃アングラ演劇を見て感銘を受け、中学生にして劇団に出入りして舞台を手伝うなど、素晴らしいと感動をしたことには夢中になってはまりこむ少女だった。
 十年前に沖縄の人と出会い沖縄にやってきたファンキーさん、そのアンテナが捉えたのは大道芸パフォーマーたちだった。火や小道具を使っての体をはった懸命なパフォーマンス。すぐに夢中になった。「ファンでいるだけじゃ寂しい。私もパフォーマーになってこの人たちとお友達になりたい!」と思ったのがこの道に入ったきっかけという。
 行動力がある彼女は早速風船パフォーマーに弟子入りしバルーンアートの技術を習得する。そしてトレードマークであるあの華やかな衣装を手作りで作り上げるとピエロのメイクで街に繰り出し「ピエロのファンキー」としてストリートデビューを果たした。実際にやってみると、これが想像以上に楽しかった。キラキラした目で周りを取り囲む人々。作品を手渡す時の嬉しそうな顔。大人もこどもも無条件で喜んだ。「だから努力のしがいもあって。自分で研究したり、変な言い方だけど人の技も盗んだりして(笑)技術を高めています。皆に喜んでもらいたいから。」と笑った。
 パフォーマーとして活動するうちに老人施設や保育園、地域のイベントからも出演依頼がくるようになった。「とにかく相手に喜んでもらおうと思ってやっていたのだけど、実は相手が喜んでくれることで私自信が元気をもらっていたことに気付きました。」とファンキーさん。「私、以前は教育ママでこどもに厳しいお母さんでした。でもピエロのメイクをしたら、成功した時は無邪気に喜び、失敗したらわぁわぁ泣く一人の人間になっていた。このメイクが素顔の自分を引き出してくれていたんです。ピエロになってからは少し優しいお母さんになりました。だから当分、『ピエロのファンキー』はやめられません」と優しい笑顔を見せた。
 当初の目的通り多くのパフォーマーと仲良くなったファンキーさん、大好きな大道芸を通し、大切な友と素敵な生きがいをみつけだした。

▲ページトップへ

▼戦後文化シアター 今月のヒストリート


▲一夜明けたコザ暴動の様子
 (ゲート通り)。撮影:比嘉秀雄

市史編集担当/TEL:929-4128
ヒストリート、ヒストリート2/TEL:929-2922

 復帰前の激動期。毒ガス撤去運動や軍雇用員の大量解雇問題で揺れていた1970年12月のコザ。さまざまな矛盾をはらんだ「基地の街」の民衆が米軍への怒りを爆発させ、米軍車両を焼き払った「コザ暴動」から今月20日で満40周年を迎えます。
 コザ暴動(騒動)とは、米軍統治下の1970年12月20日未明、胡屋の軍道24号(現国道330号)で起きた米兵運転の車の人身事故を巡ってMPの処置に反発した群衆が、米軍関係車両を大量に焼きうちした事件のことで、米軍資料(『米国が見たコザ暴動』)によれば被害総数は82台にも及びました。
 背景には、戦後25年に及ぶ米軍の沖縄人抑圧や差別、人権軽視があり、民衆のうっ積した不満が一気に爆発したのでした。
 あれから40年。コザ暴動を総括しようと、市民有志が4月から毎月20日にヒストリートUで聞き取り調査を行っています。これまでに周辺住民や警察・検察、報道関係者等に証言していただき、事件の実態が明らかになりつつあります。
 またヒストリートUにおいて、今月20日を目途に(仮称)「コザ暴動(騒動)展」を開催し、コザ暴動や当時のコザ市の写真・映像資料を中心に展示する予定です。同事件を見つめなおし、当時の沖縄の置かれていた状況を考える場になれば幸いです。ぜひ、ご来室ください。

▲ページトップへ