語り続けよう平和への鼓動

1945年9月7日、越来村森根(現在の沖縄市域嘉手納空軍)で米軍と南西諸島の日本軍守備群との間で降伏調印式が行われ沖縄戦が集結した。
沖縄市では沖縄戦終結の9月7日を「沖縄市民平和の日」とし、8月1日〜9月7日までを「平和月間」と定めている。

沖縄市の戦跡と基地

終戦から65年がたった今、戦争体験者の高齢化とともに戦争記憶の風化が危惧されております。
今一度、「戦争」、「平和」、「生命」について考えを深め、戦争の悲惨さ、平和の大切さを再認識し、次世代へ継承していこう。

米軍沖縄本島上陸地

▲米軍沖縄本島上陸地

 沖縄守備軍は、米軍の沖縄本島上陸陸地点を数カ所予想していたが、そのうちのひとつ、北谷から読谷村にいたる中部地区の西海岸が現実に上陸地点となった。一九四五年四月一日午前八時過ぎ、戦艦、巡洋艦など約二百隻の艦船から艦砲およそ四万五千発、ロケット砲三万三千発、そして迫撃砲二万二千発余が打ち込まれるなかで、上陸用舟艇と水陸両用戦車が幅十三キロメートルにわたって押し寄せてきた。以後、沖縄では「鉄の暴風」と形容される未曽有の地上戦が展開されることになる。

倉敷陣地壕

▲縦横無尽に陣地壕が構築されている

 第二十四師団(山部隊)が一九四四年八月に沖縄に転入してから、同年十二月に南部へ移動する直前まで構築していた陣地。北(読谷)・中(嘉手納)両飛行場を中心とする西海岸正面の防御のために構築こされえたようだ。倉敷周辺だけで数百カ所のの陣地壕が確認されているが、蛸壺、クランク型、L字型など数形式がある。陣地の構築には、周辺住民を歳大動員してあったが、日本軍の作戦変更に伴って陣地は放棄、放棄され、米軍上陸時には、一帯の正面守備に配された特設第一連帯(球部隊)や賀谷支隊(石部隊)の激戦場と化した。

奉安殿

▲昭和十年頃に建造された奉安殿

 天皇・皇后の写真を「御真影」といい、教育勅語の発布と前後して御真影は全国の学校に配られ、沖縄県では一八八七年に他県に先んじて配布された。御真影と教育勅語を大切に保管した建物を「奉安殿」といい、児童生徒はその前を通るたびに最敬礼をした。御真影は天皇・皇后の分身とされ、校長をはじめ職員は火事や水害など緊急の場合は命がけで御真影を守ることとされた。本島内で現存する奉安殿は字知花の美里児童園内(旧美里国民学校跡)の建物のみである。

忠魂碑

▲台座と鎖が往時を忍ばせる

 天皇に忠義・忠節を尽くした戦死者の魂を慰めるための碑をいう。明治維新の内戦で天皇軍の戦死者の殉難者として祀った招魂碑がその始まりとされ、日清・日露戦争を契機に全国各地に建立される。天皇のために死ぬといった忠義の行動を顕彰強調する政治的・宗教的特徴をもち、戦前の軍国主義思想のシンボルとして思想形成に利用された。沖縄県では、明治末頃から普及していくが、市内で現存するのは字知花の美さと児童園内(旧美里国民学校)にある忠魂碑(昭和十二年十一月建立)のみである。

比屋根の壕一帯

▲対戦車壕に隣接する陣地壕

 日本軍は中城湾一帯からの米軍上陸も予想しており、本市東部地域にはいくつかの戦争遺跡が存在する。当時の美東国民学校には日本軍の石部隊が駐屯し、泡瀬周辺の護岸や堤防沿いには、小銃掩体が設置されていた。高原から与儀にかけては対戦車戦闘壕が帯状に掘られていたようであるが、比屋根の運動公園入り口には、この対戦車戦闘壕に隣接して陣地壕がまだ現存する。一帯が直接戦火に見舞われるのは、十・十空襲であったが、特に港湾を擁していた泡瀬では多くの家屋が焼き出され、以後地域住民は比屋根、高原あたりに壕を掘り、あるいは自らの墓を利用して避難生活をおくった。

中飛行場格納庫

▲基地内に残る日本軍の格納庫

 現、嘉手納飛行場の前身。一九四三年九月、戦局が連合軍の優位に展開する中、大本営は今後死守すべき要域線、すなわち「絶対国防圏」を設定した。中部太平洋のマリアナ諸島(サイパン・テニアン・グアム)の戦線に精悦軍を配置する一方、その後方二千二百キロメートルに位置する沖縄と台湾には航空基地を設け、きたるべき航空決戦に備えたのである。この作戦にもとづき同年の夏場頃から沖縄諸島の各地には十カ所の飛行場が建設されたが、その中の一つが「中飛行場」である。

降伏調印の地 ―旧越来村森根

▲嘉手納米軍基地内に建つ降伏調印の碑

 宮古群島・八重山群島では八月十五日まで実質的に戦闘状態が続いていた。宮古・八重山の日本軍が武装解除されたのは九月上旬であった。日本政府は八月十四日にポツダム宣言を受託して敗戦処理にとりかかっていたが、沖縄ではなお戦闘状態が続いていたのである。九月七日、宮古島から納見敏郎中将らが降伏調印のために嘉手納基地に召還された。降伏調印の場所は旧越来村の森根である。日本の三将軍らは「南西諸島の全日本軍を代表して無条件降伏」を申し入れ正式に降伏。名実ともに沖縄戦が終わったのである。

インヌミ引揚民 収容所

▲ステロキャンプいわゆるインヌミ収容所(1946年)

 沖縄戦中の収容所には、屋嘉収容所に代表されるように捕虜になった軍人を収容する捕虜収容所や一般住民を入れた難民収容所、そして海外や県外からの引揚者を収容した海外引揚民収容所がある。戦中の避難民を含め終戦直後には、北部に膨大な数の難民が集められ沖縄本島に十二カ所の難民収容所が設置された。その南限が嘉間良難民収容所である。また、引揚者のための収容所のひとつインヌミ収容所が、沖縄市高原一帯に設置されていた。

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