あらたな環境に飛び込み、
そこに関わる人達と何かを発想し、生み出す

林僚児さん・千夏さん夫妻
天才と社会性ゼロ人間が夫婦となった。どちらもアーティスト。銀天街でまち興しのため日夜奮闘している。二人にとってIターンは一生冒険の具現化。家族や仲間たちと楽しいことも大変なことも共有しながら、バランスを保ちながら歩んで行く。

Iターンは私の人生にとって
「一生冒険」を具現化してくれるもの

林僚児さん・千夏さん夫妻

(千夏さん)東京都。小学生の頃から東京の郊外で育ち、美術大学を卒業後、アルバイトをしながら友人たちと沖縄のプロジェクトをはじめる。同時に街を舞台にした様々なアート活動に関わる。(富山県での滞在制作、東京周辺でのアートイベント参加など)
東京郊外で育ったので、地域の伝統行事や近隣とのコミュニケーションなどは少なかった。両親が長野出身なので、子どもの頃、毎年夏休みに長期で遊びにいっていた時の記憶は鮮明である。
(僚児さん)長野県小諸市に生まれ、高校卒業するまで、浅間山や千曲川などの山川に囲まれた標高679mのところで育ちました。朝夕はとても冷え込み、風が冷たく季節の変わり目の度風邪を引いていました。春は山にたらの芽を採りに、夏は海なし県なので一日限りの日帰りの海、秋はじいちゃんたちと山にきのこ採り、冬は田んぼに張った氷でスケート、山でスキーといった感じでしたが、なぜか色黒でした。大学が東京だったので八王子や吉祥寺あたりに住んでいました。

(千夏さん)沖縄の銀天街に滞在制作をしてアートイベントを行うという「クバプロジェクト」をはじめて、東京の郊外で育った私は様々なカルチャーショックを受けた。
銀天街のお店は沖縄の旧暦の年中行事にそった営みをしていて、店主さんたちから日々、旧暦レクチャーを受け、飲み会では、コザパワー炸裂の熱いおじさんたちから街の歴史を聞き、遊びにやってくる子どもたちにからまれながらも、自由奔放でまっすぐな力のある瞳の彼らに惚れ込んでしまう。そんなみなさんにまた会いたいなと行ったり来たりをくり返していた。沖縄で自分たちがはじめた活動を腰をすえてやってみたいと思っていた頃、ある子どもが別れ際に「帰るなら来るなー」と発言。。。
彼らと本気で何かやってみたいと決意し、2005年に銀天街の空き店舗を改装し「スタジオ解放区」をはじめるために居を移す。
(僚児さん)沖縄に興味をもった大学時代や高校の友だちと沖縄市銀天街で始めたアートプロジェクトがきっかけでした。2002年に初めて沖縄を訪れ、銀天街との出会いのきっかけは、琉大の教授で「アートとまち育て」の研究をしている知念肇さんとの縁です。知念さんがアトリエとして自由に使っていいよと言ってくれた店舗は銀天街の隣でした。東京でバイトしながら、3ヶ月に1度のペースで2週間くらいの滞在制作をしに銀天街に通いましたが、東京や千葉、富山の地域でのアートプロジェクトの関わりも増えてきた。2005年に銀天街の空き店舗を借りてみんなで「スタジオ解放区」をつくりました。その空き店舗に住みながら改装を行ない、いままで関わってきた仲間や新たに興味を持った人が訪れ滞在制作ができるように泊まれるスペースとアトリエ空間にしました。

(千夏さん)2002年秋、「クバプロプロジェクト」をスタート。2003年3月、9月に銀天街でアートイベントを行う。
2005年「〜老若男女の美術庭〜スタジオ解放区」スタート。アーティストなどの滞在制作の場を作り、コザの街を舞台にしたアートイベントやワークショップを行い、銀天街を拠点に県内外にひろがる緩やかなつながりをつくる。また、日常的に子どもアトリエを行う。05年より毎年夏に、アサヒアートフェスティバルに継続参加。
〜開催した主なイベント等〜
05年「シチグヮチ」、06年「くわっちーあしび」「コザカプセル」、07年「映画時間」「銀天大学」、08年「コザ百匠一起」「コザ銀天大学」「全国アートNPOフォーラム」、08年「コザクロッシング〜変わりゆく風景〜」「コザ銀天大学」
(僚児さん)2003年3月に第1回9月に第2回cuvaプロジェクト銀天街発表会。「スタジオ解放区」をつくり、アーティストの滞在スペースの運営や解放アトリエを行っています。同年から始まったアサヒアートフェスティバルに毎年継続して企画参加しています。銀天街商店街振興組合の恊働団体の立場でスタジオ解放区と琉球大学ティトスゼミが企画したチャレンジショップ1号、地域アートプロジェクト「銀天大学」のオープン。現在はタウンマネージャーとして、銀天街商店街振興組合の事業であるアーケード撤去やオーニング設置などハード面の整備や「銀天街まつり」「食とアートと交流の街づくり」などの事業を中心に行政の立場からサポートを行っています。

(千夏さん)家族。楽しいことも大変なことも共有してきた仲間(老若男女)。
表現活動。このバランスをとりながら、日々精進していくこと。
(僚児さん)分野を超えて、自分の置かれたその状況下で、そこで関わる人たちと何か発想して、コラボを生み出すことが何やるにも大事だと思っていて、始めから何かを持ち込むのでなく一旦捨て、裸になって、相手にもなってもらって、ゼロから互いの体験を一緒に積み重ねながら共有していくことだと思う。

(千夏さん)東京の美術大学(絵画科)にて出会ってからの長いつきあい。独自のワールドをかもしだす面白い人だなと思いながら公私ともにパートナーとなり様々な活動を共に行う。あまりのマイペースぶりに困惑しつつも今日にいたる。
(僚児さん)大学時代に友だち同士でよくいろんな遊びやフィールドワークをしていた仲間のひとりで、千夏は大学時代に教授から天才と呼ばれるほど制作をがんばっていた人だったことをおぼえています。作品を通してコラボするようになって、自分ひとりでやる制作は変態的なものばかりで社会性ゼロと診断された私も、ふたりでやると社会性を帯びてきて、作品や企画でコラボして互いの間にあるものを表現していくことで前に進んでいくといった感じ。

(千夏さん)私にとってのIターンとは、心の隅に掲げている私の人生にとって大事なことば「一生冒険」を具現化してくれるもの。
Iターンで得たものは、老若男女、幅のひろい年齢層の大切な人たち。その人たちが暮らす街の風景。行動を起こすことで生まれた面白い環境。自分が育った場所やDNAについての意識。(幼児期に伊豆大島、その後東京で育つ。両親は長野県出身)
(僚児さん)移りゆくことは自分にとっては特別なことではなかった気がして。高校時代に古典の授業で習った方丈記の中にでてくる、仮の宿りという概念が頭に入ってきてから、今しかないという危機感と、どこにでも自分が偏在しているような気がして、サバイバルのような、友達を巻き込んで、こんな状況になっちゃったけど今日どうする?みたいな状況をわざと作り出しては知らない場所や人の家に押し掛けるなどをよくしてました。だから、移住の原点であるあらたな環境に飛び込むこと、自分の置かれた状況下でそこに関わる人たちと何か発想して生み出すこと。は自然と身に付いていました。おおげさに言えば、自分という存在はあらゆる場所に移住していて、どこにでも偏在する意識を持っています。

(千夏さん)2008年に沖縄にて長男を出産し、母になる。子育てをしながらも、みなさんに助けられ「スタジオ解放区」の活動を継続中。この夏に終えたアサヒアートフェスティバル参加のアートイベント「コザクロッシング〜変わりゆく風景〜」を終え、来年度の計画を練りながら日々を暮らす。コザ銀天大学の運営にも関わりながら、寺子屋講座にて美術教室を行う。(毎週金曜日、16時半〜18時)
(僚児さん)沖縄市に住んで5年の間に4ヵ所の場所に移り住みました。
銀天街の空き店舗2ヵ所、城前と移って今住んでいるのは越来です。東京にいた9年間のあいだも6ヵ所移り住みました。状況に合わせて住む環境も移り変わっていくので引越し貧乏です。昨年、沖縄で長男が誕生しました。みなさんにとてもかわいがってもらって、歩くようになったので銀天街の路地空間でよちよちひとりで探検しているとお店のおばちゃんたちが遊んでくれたり、天ぷらをくれたりして味をしめているようです。ちょうど時期を同じくして、市場内でベビーラッシュ現象が起きている。昨年度から、沖縄市の嘱託でタウンマネージャーの仕事をしています。経済文化部商工振興課の仲間と中心市街地の問題に取り組んでいます。これからの地域商店街の在り方を商店街や地域の方たち共に試行錯誤するとき、ベビーラッシュの中にヒントもあるような気もしています。全国のいろんな地域の方たちとつながり勉強しながら、行政から街にできること、民間の立場で街にできること、アーティストの立場でできることを仲間たちと取り組んでいこうと思ってます。

(千夏さん)いろいろな角度からみることができるが、子育て一年生の私なので、こどもの街宣言をしている沖縄市について。コザ十字路周辺で歩いて気軽にいける場所に、子ども(乳幼児)を安心して遊ばせられる環境が欲しい。
(僚児さん)コザ十字路に暮らす一個人の発想として聞いてもらいたいんですが、コザ十字路に図書館や博物館や美術館やメディアセンターのような文化施設があって駐車場があれば、もっといい場所になると思う。泡瀬からも美里からも胡屋からも来れる中間地点として。越来城水辺公園ができた意義も大きいと思う。コザ十字路地域に象徴となる求心力がある文化施設ができれば、それに連動して歴史散策コースや商店街や沖縄でも残りわずかになってしまった銭湯や映画館、民謡スナックなどもそのディープな魅力も活きてくると思う。

沖縄市
(コザの素顔が知りたい)

 もちろん、沖縄市なのだが「コザ市」が現在でも存在しているかのように「コザ」という呼び名をよく耳にする。親しみやすい、愛着のある呼び名になっているのだろうか。「コザ」という言葉は当分、死語にはならない。いや益々、使われそうな気がする「コザ」の持っている魅力とは「コザ」の素顔とは何なのだろう………。
 「コザ」という名称は何処からきたのだろう。もともとコザという地名はなかった。終戦直後に米軍が「胡屋」または「古謝」を誤って「コザ」と表記したのが一般に使われるようになったと聞く。また、こんな説も一九四五年四月、米軍が沖縄本島中部の西海岸から上陸、その後、越来村に陣地を敷いて重要拠点とした。当時、米軍の作戦地図には各道路の要衝である越来村の胡屋地区が「KOZA」と表記されていた。それ以来、戦後もコザと呼ばれ続けていった。
 ともあれ、「コザ」という地名が誕生したのである。
 戦後、コザを中心に米軍基地ができ、基地で働くために全県下からたくさんの人々が集まって来た。そこから「基地の街・コザ」の代名詞が付き、コザといわれる時代になる。そして、中部のど真ん中にあり、今もはびこる基地の街の色彩や香りが通りに漂う。
 ある人は言う「コザの特徴は人間の魅力ですね。コザんちゅ(人)の魅力でもある。コザの魅力や特徴は、コザに住んでいる人よりも、よそから見た方がよく分かる。そうだと思うよ」また、ある人は「かつてコザには公務員と軍用地主と軍作業員と、少しの商売人と芸人が住んでいた」。さらに、「コザには、種々雑多な文化を無条件で受け入れる風土があり、チャンプルー(混ぜ合わせ)がぴったりの街である。しかし、文化は食べなきゃー育たないが、今はその食が細くなっている」。
 基地の街コザは各地から多くの人々が集まり発展した。人口も県下第二を誇るまでになった。そこには、故郷を愛する心が生み出した郷友会が組織され、同じように沖縄市を愛する愛市の精神が培われてきた。
 移住者の方々にコザの素顔がどう映っているのだろうか。気になるところである。沖縄市には現在、アメリカ、中国、インドなど二十数カ国の外国人が住んでいる。外国人経営の店も並び、やはり他市町村にはない独特の雰囲気を持っている。エイサー、民謡、オキナワンロックなど様々な文化を受け入れるコザの精神。それらがとけ合って現在でも「コザ文化」を醸し出している気がする。そして、その精神は移住者の方々にも受け継がれていく気がする。沖縄市、コザを愛する人々みんなに受け継がれていく。
 多くの移住者がこの地を選んで住んでいる。この地の魅力について改めて考えてみたい。そして学んでみたい。移住者の方々と。

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